白サギが飛翔する時には、長い顎・S字型に縮める脚を尾端からよく出して羽ばたきもゆうゆうと飛翔する。バナーはその白サギ(学名:チュウサギ) を描いたものである。この別名白サギを描くにあたり、二面性を考えました。
一つは、鷺沼の地に白サギのように白く清廉の士が、奉仕の理想のもとに集まりゆうゆうと青空高く飛翔する姿であり、もう一つは、かつて白サギが生息したであろうこの鳥たちの楽園も、いつとはなく住宅難解消とか地域発展という美名のもとに、その生態系を破壊された最後の一羽のかなしき声をあげて飛び去る姿である。
それは私たちが心底から生態学的な思考態度をもつに至っていないからでないでしょうか?
自然に対しても生命のないものから、動植物のように生命のあるものに至るまで、一つの全体あるいは人間もその一部である唯一の世界とみなしてる宇宙観があらねばならないと思うし、宇宙の進化に自らを適応させるためにそうせざるを得なくなった時だったのでしょうか?それとも東洋的思考、あるいは行動体系からの逸脱でしょうか。
ペルトラン・ド・ジュウネルが書いている……
今や「西洋の発展の叡智を捨てて、仏教や道教文化にはぐくまれた融和の叡智を、おおいに高揚しようではありませんか」…と。 |